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#m7kenji
2024.11.29
m7kenji 特別インタビュー Part1 携帯の待ち受けサイトから始まった“m7kenji”の物語
Interviewer: 坂本遼󠄁佑
イラストレーター、映像作家、ゲームクリエイター、VJなど、さまざまな“顔”を持つピクセルアーティストのm7kenji氏に特別インタビュー! 今年、2人展「雲を掴むピクセル」や7人展「ピクセルパッチパンチ」だけでなく、7年ぶりとなる2度目の個展「Pulse into Flow」の開催したことでも話題となった、m7kenji氏の創作活動の裏側とはーー。(文=坂本遼󠄁佑|Ryosuke Sakamoto)
アイデアを生み出す思い出の風車
| 坂本 | 今回は、東京都江戸川区にある若洲海浜公園で、ピクセルアーティストのm7kenjiさんに、インタビューをさせていただいています。本日はよろしくお願いします。 |
|---|---|
| m7kenji | よろしくお願いします。 |
| 坂本 | この若洲海浜公園は、m7kenjiさんにとって思い出の場所とのことですが、なにか印象深いエピソードなどがあるのでしょうか? |
| m7kenji | 若洲海浜公園内にある風力発電施設の風車。これは2024年度中に取り壊されることが決まっているのですが、昔よく仕事の合間に見に来ていたんです。 |
| なにか作品を制作していて行き詰まった時、海岸沿いにあるベンチで風車を眺めていると、どこからかアイデアが浮かんでくることがあって。気分転換にぴったりの場所でした。 | |
| 坂本 | m7kenjiさんの発想の源泉はここにあったんですね。 |
| m7kenji | かつて携帯用として開発したアクションゲーム『BUGTRONICA』(2012)を、スマートフォン用のアプリとしてリメイクした時、“裏ステージ”に描いた風車はここがモデルになっています。 |
VJのパフォーマンスなどで使うヘルメットを装着して取材現場に現れたm7kenji氏
| 坂本 | あの風車は若洲海浜公園にあったんですね。 |
|---|---|
| m7kenji | 他にも、ゲームの途中で「中防の女神」という木の彫刻が出てくるのですが、これも実際にある作品がモデルになっているんです。 |
| 坂本 | 「中防の女神」とは、どんな作品なんですか? |
| m7kenji | かつて中央防波堤にあるゴミ処理施設で、美しい女神像が見つかったことがあって。そのまま捨てるには忍びないという理由で、施設内に飾ることにしたらしいんです。 |
| その話がずっと記憶に残っていて、ゲームの要素として取り入れることにしました。今でも中央防波堤の施設を見学すれば、その木彫を見ることができると思います。 | |
| 坂本 | 若洲海浜公園は『BUGTRONICA』の聖地巡礼の地でもあったんですね。 |
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デザインの道を探して“機械科”に進学
| 坂本 | 現在は、ピクセルアーティストとして活動されているm7kenjiさんですが、子供の頃から絵を描くのが好きだったんですか? |
|---|---|
| m7kenji | 絵を描くことは好きでしたが、ずば抜けて上手いわけではなかったです。どちらかというと、ギターなどの楽器を演奏している方が好きでした。 |
| 坂本 | ご両親は音楽やアート系の仕事をしていたんですか? |
| m7kenji | 父は絵を描くのが好きでしたが、音楽やアートとは関係のない仕事をしていました。双子の弟もいるんですが、今はエンジニアの仕事をしています。 |
| 坂本 | 双子だったんですね! |
| m7kenji | 一卵性なので見た目はよく似ているんですが、絵を描いている印象はなかったです。でも、音楽が好きなところは2人とも共通しています。 |
| 坂本 | 学生時代はなにを専攻していたんですか? |
| m7kenji | 中学生を卒業する頃に、これからの進路に悩むようになって。デザインなどに興味があったので、美術科に進学しようと思ったんです。 |
| しかし、美術科で受験した高校はすべて落ちてしまい、代わりに機械科に入学することにしました。 |
| 坂本 | 大きな方向転換ですね。 |
|---|---|
| m7kenji | たまたまデザイン科がある学校に、機械科もあることがわかって、同じ学校にいれば関わることがあるかもと思ったんです。 |
| それで、面接の時に「機械科でデザインの道を探します」と突拍子もないことを言って、運よく定員割れで高校に入学することができました(笑) | |
| 坂本 | 機械科ではプログラミングなどを勉強するんですか? |
| m7kenji | ポケコン(※1)でプログラミングの勉強もしましたね。あとは、受刑者みたいな作業着を着て、旋盤で回転する鉄に刃をあてながら削る作業など(笑)油まみれの手をピンク色の石鹸で洗っていました。 |
| ※1)ポケットコンピュータの略称。1980年代に普及したポケットにおさまるサイズの携帯用小型コンピュータ。 | |
| 鉄を削る作業に疲れて横の教室を見ると、デザイン科の生徒たちが一眼レフのカメラを触っていて、機械科の生徒からするとすごく羨ましかったです(笑) |
高校2年生で始めた待ち受けサイト「M7」
| 坂本 | ピクセルアートを描き始めたきっかけはなんだったんですか? |
|---|---|
| m7kenji | そもそものきっかけは、高校生時代に「M7」という携帯電話の待ち受けサイトをやっていたことです。 |
待ち受けサイト「M7」
| フィーチャーフォンが全盛期だった頃は、無料で待ち受け画面の壁紙をダウンロードできるサイトがいっぱいあって、オススメの待ち受けサイトを紹介する雑誌なども売られていました。 | |
| 坂本 | 自分も学生時代にダウンロードした記憶があります。 |
| m7kenji | でも、当時はインターネットがまだ発達しておらず、自分のほしい画像がうまく見つからなかったんです。また、待ち受け画面に使いたい画像があっても、携帯で再生できるサイズでない場合、自分で解像度などを調整する必要があって。次第に、自分でオリジナルの待ち受け画像を作った方がいいと思うようになりました。 |
| 坂本 | その頃からドット絵を描いていたんですね。 |
| m7kenji | 最初は、ドット絵ではなく風景画やCGグラフィックのようなイラストを描いていたんです。でも、当時の携帯で表示できる画像の解像度には制限があって、自然とドット絵みたいなテイストになっていきました。 |
当時「M7」に投稿していた待ち受け画像
| 初期に描いた待ち受け画像は、120×160くらいの解像度で画像を作っていて。QVGAの320×240(※2)が出た時、画像の綺麗さに驚いたのを覚えています。 | |
| ※2)Quarter Video Graphics Arrayの略称。携帯画面などの画素数構成のひとつ。縦横の画素数が横320×縦240、アスペクトも4:3と決まっていた。 | |
| 坂本 | 嫌でもドット絵のようなイラストになっていたんですね。 |
| m7kenji | なので、ちゃんとドット絵を描き始めたのは、高校を卒業してからです。 |
音楽とネットを組み合わせた“m7kenji”
| 坂本 | 待ち受けサイト「m7」の名前は、どのように決まったんですか? |
|---|---|
| m7kenji | 当時は、ギターを弾くことが趣味だったので、ギターのコードをサイトの名前にしようと思ったんです。それでマイナーセブンスを意味する“m7”にしました。 |
| 坂本 | ギターのコードの名前だったんですね! それが、今のアーティスト名に繋がっているんですか? |
| m7kenji | BBS(電子掲示板)にサイトの管理者として書き込むことがあって、はじめは本名の“kenji”をハンドルネームにしていたんです。 |
| でも、掲示板でクラブイベントのVJに誘われた時、そのまま“VJ・kenji”だと少しダサい気がして(笑)サイト名の"M7"を頭につけて、字面の良さで小文字に直して"m7kenji"。本当に成り行きで付けたアーティスト名でした。 | |
| 坂本 | 高校時代のm7kenjiさんを構成していた、音楽とインターネットを組み合わせた名前、素敵ですね。その頃からアーティスト活動を始めていたんですか? |
高校生時代に制作した着信やメール送受信のアニメーション
| m7kenji | 機械科なので、アート系の授業は少なかったのですが、デザイン科の生徒たちに混じって、レタリングの検定を受けたり、卒業制作の展示に混ぜてもらったりしていました。 |
|---|---|
| 坂本 | 卒業制作ではどのような作品を展示したんですか? |
| m7kenji | 待ち受けサイト用に作った画像を並べ、当時はまだ世に出回り始めたばかりだったQRコードを使い、その場で画像をダウンロードできる展示にしました。 |
| 坂本 | 他にも待ち受けサイトを運営している生徒はいたんですか? |
| m7kenji | ほぼいなかったです。 |
| 坂本 | まさに時代の先端を行く高校生だったんですね(笑) |
2005〜2006年に制作されたデコメール素材のGIFアニメ
- m7kenji

- Interviewer: 坂本遼󠄁佑 the PIXEL magazine 編集長。東京都練馬区出身。大学ではアメリカの宗教哲学を専攻。卒業後は、出版社・幻冬舎に入社し、男性向け雑誌『GOETHE』の編集や、書籍の編集やプロモーションに携わる。2023年にフリーランスとして独立し、現在はエディター兼ライターとして活動している。