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#Shinji Murakami
2024.10.11
Shinji Murakami 特別インタビュー Part2 ストリートアートへの情熱が導いた挑戦の地・ニューヨーク
Interviewer: 坂本遼󠄁佑
NYを拠点に世界で活躍する現代アーティストのShinji Murakami氏に特別インタビュー! 20代からストリートアーティストとしてグラフィティ作品の制作を始め、現在は8bitゲームをベースにしたアート作品でも知られる今注目のアーティストが語った、ビデオゲームの歴史をポップアートにする意味とは−−。
Shinji Murakami氏のゲーム作品『Floralroids』がSHIBUYA PIXEL ART 2024のキービジュアルになった経緯などを伺った第1回。続く第2回では、アートに興味を持ち始めた幼少期のエピソードや、ストリートアーティストを目指すきっかけとなったKAMI氏との出会い、26歳で体感したニューヨークのリアルについて深掘りした。(文=坂本遼󠄁佑|Ryosuke Sakamoto)
映画『ジュラシックパーク』に衝撃を受けた原体験
坂本 | 今ではNYを拠点に世界で活躍されているShinji Murakamiさんですが、そもそもアートに興味を持たれたきっかけはなんだったんですか? |
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Shinji Murakami | 小学3年生くらいの時に、映画『ジュラシックパーク』を見て、3DCGアーティストになりたいと思うようになりました。それまで、3DCGを使った映像を見たことがなくて、強く衝撃を受けたことをよく覚えています。 |
坂本 | もともと映画を見るのが好きだったんですか? |
Shinji Murakami | 子供の頃から映画が好きな少年でした。でも、その頃に上映されていた初期の「スターウォーズ」シリーズは、まだ3DCGがないのでマペットの人形などが使われていて。本物の恐竜にしか見えない『ジュラシックパーク』の映像は、自分にとってまさにセンセーショナルだったんです。 |
坂本 | 確かに、3DCGができるまでのSF映画は、クオリティに大きな差がありましたよね。ちなみに、Shinji Murakamiさんのご両親は、なにかアート系の仕事をされていたんですか? |
Shinji Murakami | まったく関係ない仕事でした。父親は電気工事士として働いていて。母親は看護師だったのですが、美術館などによく行ってはいたけど、特にアートに関する話をした思い出はないです。 |
小学生時代に制作した作品『Alien Returns Home』(1994)。
坂本 | では、もともと絵を描くことは好きだったんですか? |
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Shinji Murakami | 絵を描くことは好きでしたね。学生時代は、テスト用紙の裏によく落書きをしてました(笑) |
坂本 | 部活も美術系だったんですか? |
Shinji Murakami | 当時は、バスケ部に所属していました。その頃、週刊少年ジャンプに漫画『SLAM DUNK』が連載されていて、友達がみんなバスケ部に流れていったんです。それで、バスケ部に入部しようと決めました。 |
グラフィックデザイナーからストリートアーティストへ
坂本 | 高校を卒業した後は、どのような活動をしていたんですか? |
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Shinji Murakami | 小学生の頃から3DCGアーティストになりたかったので、映像系の専門学校に進学することにしました。でも、3DCGのソフトウェアを勉強できるのは2年生からで、1年生はPhotoshopやIllustratorを使った2Dの授業ばかりだったんです。 |
坂本 | では、1年生の頃はあまり好きなことを学べなかったんですね。 |
Shinji Murakami | 最初のうちは、3DCGの勉強ができなかったので不満もありました。でも、次第に2Dの作品を制作するのが楽しくなってきたんです。2年生になってやっと3DCGを学び始めても、ゲームソフト『マインクラフト』みたいな簡単な映像しか作ることができなくて。 |
何人かのチームで作業しないと長編の映像を作ることができない3DCGより、自分ひとりで好きに作品を制作できる2Dの方が、ぼくには合っていると思うようになりました。それで、大阪から上京してグラフィックデザイナーを目指すことにしたんです。 |
『Future Caterpillar』 (2005)
坂本 | 初めての東京での生活はいかがでした? |
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Shinji Murakami | 最初は、飲食店でアルバイトをしながら活動をしていたんですが、グラフィックデザイナーの仕事が見つからなくて。そんな時に、ストリートアーティストのKAMIさん(※1)という人に出会ったんです。 |
当時は、日本でもストリートアートが流行り始めていた時期で、海外のアーティストたちにライブドローイングなどの活動をしているKAMIを見た時に、日本人でも海外のアーティストたちと渡り合うことができるんだと驚きました。 | |
※1)日本のストリートアーティスト。日本のストリートアートの創成期から現在に至るまで、多くのアーティストに影響を与え、ストリートアートシーンを牽引してきた。SASUとのユニット「HITOTZUKI」としても知られている。 | |
坂本 | まさに運命的な出会いですね。 |
Shinji Murakami | それで、グラフィックデザイナーとしての仕事が見つからないのなら、いっそアーティストになろうと考え出したんです。グラフィックデザイナーはクライアントの要望に応えないといけないけど、アーティストなら自分で作品の仕上がりを決められる。 |
これからは自分が好きなストリートアートで活動していきたい。そう思うようになって、夜中に大きな看板があるビルの屋上に登っては、オリジナルのキャラクターを描くようになったんです。 | |
坂本 | Shinji Murakamiさんのアーティストとしての活動が始まったんですね。 |
より表現的な“ストリートアート”を目指して
坂本 | 日本だけでなくNYでもストリートアートの活動をされていたShinji Murakamiさんですが、グラフィティを描く時のスタイルなどはあったんですか? |
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Shinji Murakami | ぼくは、近所の子供たちがおばあちゃんと散歩している時、自分の作品を見て楽しんでもらえるような作品を目指していました。ストリートアートには、自分の名前やチーム名などをグラフィティにする“スローアップ”という手法があるんです。 |
でも、それは仲間内でしかわからないものが多くて。あまりパブリックなものではなかったんです。なので、ぼくはアート作品として認知されるような、社会性のあるグラフィックを描いていました。 |
Daikanyama, Tokyo, 2006
坂本 | 時代の流れなどもあったんですか? |
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Shinji Murakami | ちょうど“グラフィティ”と呼ばれていたものが、“ストリートアート”に移り変わる時期だったんです。2000年代に入ってから、インベーダー(※1)や、バンクシー(※2)、シェパード・フェアリー(※3)などのアーティストが登場して。より表現的な作品が増えてきていました。ぼくが憧れていたストリートアーティストのKAMIさんもそのひとりです。 |
※1)Invader。フランス出身のストリートアーティスト。1970〜1980年代のレトロゲームを連想させる8bitのキャラクターや、ポップカルチャーをモチーフにした作品で知られる。 ※2)Banksy。イギリスと拠点に活動する正体不明のストリートアーティスト。世界各地の壁や道路などに、社会問題をテーマにした風刺的なグラフィティ作品を残している。 ※3)Shepard Fairey。イギリス出身のストリートアーティスト。「OBEY」の名でも知られている。プロレスラーのアンドレ・ザ・ジャイアントの顔を模したステッカーが有名。 |
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坂本 | 今でも有名なアーティストたちですね。 |
Setagaya park, Tokyo, 2005
Shinji Murakami | あと、「Mr.A」というキャラクターで知られているアンドレ・サライヴァ(※4)というストリートアーティストがいて。日本の青山にあるビルの屋上に、グラフィティを残していたんです。それで、自分もビルに登れることをわかって、夜中に青山のビルの屋上でグラフィティを描いていました。 |
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※4)André Saraivaスウェーデン出身のストリートアーティスト。ウインクをする丸顔のキャラクター「Mr.A」のグラフィティで知られている。 | |
坂本 | 夜中にビルに登る根性がすごいですね(笑) |
Shinji Murakami | 当時は、今よりも尖っていて。代官山のとある階段でグラフィティを描いた時、次の日に写真を撮りに行ったら、上からスプレーで“バツ印”が書かれていたんです。でも、自分のなかの反骨精神が出てしまい。「せっかく描いたのに、ふざけんなよ!」と思いながら、ローラーで白いペンキを塗り直して、またグラフィティを描いたりしていました(笑) |
坂本 | 現在のShinji Murakamiさんを見ていると、考えられないくらい尖っていましたね(笑) |
アーティストとしてNYを拠点に生きていく難しさ
坂本 | その後、アーティストとして本格的に活動を始めてみて、なにか心境の変化などはあったんですか? |
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Shinji Murakami | 20代前半はストーリーアートをしながら、キャンパス作品なども制作していたのですが、東京にはもう“やり切った感”があったんです。それで、グラフィティの発祥の地であるNYに行ってみたくなり、26歳の時に10日間だけNYで旅をしてみました。 |
NYの街中にあるストリートアートを見てまわって。今はもうない“ドミノ・シュガー”という工場のパイプを登って、3階の屋上でオリジナルのストリートアートを描いたりもしました。 |
Brooklyn, NY, 2006
坂本 | その時、NYを拠点に活動することを決めたんですか? |
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Shinji Murakami | いいえ。逆に、実際のNYのアートシーンを見ていたら、アーティストとして生きていく難しさを痛感しました。当時、NYのギャラリーが集中していた“チェルシー”という地区には、天井高が何mもある巨大な展示場や、ビルの中にある小さなスペースまで、300くらいのギャラリーが並んでいたんです。 |
もし、NYでアーティストとして生きていくなら、このギャラリーに作品が展示されるくらい、しっかりと実力を付けないといけない。そう考えた時、自分にはまだNYで生活するほどの力がないと思ったんです。なので、日本に帰ってまたバイトをしながら、アーティスト活動を続けることにしました。 | |
坂本 | では、実際にNYで生活するようになったのは、何歳ぐらいからのことなんですか? |
Shinji Murakami | 26歳でNYのリアルを知って、3年くらい日本で活動資金を貯めていたので、ちょうど29歳くらいの時でした。 |
『Video Game』(2016)Commission tile design for Salesforce East building in San Francisco、Photo by Patricia Chang
坂本 | 当時から英語を話せたんですか? |
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Shinji Murakami | 日本にいた頃から語学に興味はあったんですが、英語で日常会話すらちゃんとできませんでした。初めの5年間くらいは、アメリカ人の家庭にホームステイしていたんですが、家主のおじさんから「最初は、お前がなにを言っているのか、まったくわからなかった」と笑われたくらいです。 |
- ShinjiMurakami
- Interviewer: 坂本遼󠄁佑 the PIXEL magazine 編集長。東京都練馬区出身。大学ではアメリカの宗教哲学を専攻。卒業後は、出版社・幻冬舎に入社し、男性向け雑誌『GOETHE』の編集や、書籍の編集やプロモーションに携わる。2023年にフリーランスとして独立し、現在はエディター兼ライターとして活動している。